相沢チヨと矢板市:昭和の尊属殺人事件が変えた日本の司法
David Mccullough
1968年(昭和43年)の秋。栃木県北部に位置する矢板市の市営住宅で、ひとりの女性が限界を超えた。その夜の出来事は、単なる刑事事件にとどまらず、日本の憲法解釈と家族法の在り方を根底から揺さぶる歴史的な法廷闘争へと発展することになる。「相沢チヨ‐矢板市」という名で語り継がれるこの事件は、被害者と加害者の境界線がどこにあるのかを、社会全体に突きつけた。
事件の発端――矢板市の市営住宅で起きたこと
1968年(昭和43年)10月5日午後10時ごろ、栃木県矢板市の市営住宅で異様な事件が発生した。近所の雑貨商の戸を叩いた女性は、震える声でこう言った。「いま、父親を紐で絞め殺したんです」。その場に崩れ落ちた彼女が、相沢チヨ(当時29歳)だった。
驚いた雑貨商はすぐに所轄署に通報し、チヨはその場で尊属殺人の容疑で緊急逮捕された。殺されたのは、チヨの実の父親で、植木職人の相沢文雄(仮名・52歳)だった。逮捕の知らせは静かな矢板市に衝撃を走らせたが、取り調べが進むにつれ、真に衝撃的だったのは事件の表面ではなく、その奥に隠された深淵な悪意であることが明らかになっていった。
15年にわたる苦しみ――チヨが抱えてきた真実
チヨは14歳の頃から父親に強姦されており、その後15年間にわたって夫婦同然の生活を強いられていたのだった。チヨはその間に、父親との子どもを5人産んでおり、また5回の中絶をさせられていた。これは一個人の悲劇ではなく、閉じた家族という密室の中で長年にわたって繰り広げられた組織的な暴力だった。
家を出ようとするたびに、父親の支配は強まった。29歳になったチヨは、工員の男性と恋に落ちたが、それを知った父親が逆上し、「家を出ていくなら子どもを殺してやる」と脅迫して、チヨを自宅に監禁・虐待した。恋愛というごく普通の感情を持ったことが、さらなる地獄の引き金になった。
チヨは1968年(昭和43年)8月頃、勤務先の印刷工場で知り合った年下の同僚と相思相愛の関係になり、結婚を考えるようになった。しかし父親に結婚の許しを求めたところ、父は酒に酔っては「出て行くならお前らが幸せになれないようにしてやる」などと脅迫した。逃げ場は、どこにもなかった。
口論となった10日後、精神に限界を迎えたチヨは、股引きの紐で父親を絞殺した。発作的な犯行だった。15年間の累積した恐怖と痛みが、その夜ついに臨界点を超えた瞬間だった。
尊属殺人罪とは何か――問われた法律の正当性
当時の日本刑法には「尊属殺人罪」という規定が存在していた。自分の親や祖父母など直系尊属を殺した場合、通常の殺人罪よりも著しく重い刑罰が科される条文だ。相沢チヨはこの規定によって起訴された。しかし問題は、この規定が憲法14条の「法の下の平等」に違反するのではないかという根本的な疑問だった。
第一審の宇都宮地方裁判所は画期的な判断を下した。第一審では係る事情が最大限に考慮され無罪が言い渡されている。裁判官たちも、この事件の背景にある事実の重さを無視できなかったのだ。しかし検察は控訴し、事件は上級審へと移った。
東京高等裁判所も、尊属殺人罪の規定に疑問を呈した。東京高裁の判決文には、本事件の被告として「相沢チヨ」という名前が明記されていた。やがて最高裁判所の大法廷へと審理が持ち込まれ、日本の憲法史上もっとも重要な判例のひとつが生まれることになる。
最高裁の歴史的判断――「尊属殺規定は違憲」
1973年(昭和48年)、最高裁判所大法廷はついに判決を下した。刑法200条の尊属殺人罪に規定された法定刑は、通常の殺人罪と比べて著しく重く、憲法14条1項が保障する「法の下の平等」に違反するという判断だった。日本の司法史において、最高裁が法律の規定を違憲と判断したのは、この時が事実上初めてのことだった。
最高裁が下した判決は、「普通殺人罪」を適用した上で、情状酌量により懲役二年六ヶ月、執行猶予三年というものだった。チヨが実際に刑務所に収監されることはなかった。判決の内容よりも、その法的判断が持つ意味のほうが、はるかに大きかった。
ただし、この判決は「尊属殺人罪という条文そのもの」を廃止したわけではない。条文が刑法から正式に削除されるのは、判決からさらに20年以上が経過した1995年(平成7年)のことだ。それまでの長い期間、違憲とされながらも条文は存在し続けるという、法的な空白地帯が残された。
矢板市という場所――事件の地理的背景
相沢チヨという名と切り離せないのが、舞台となった栃木県矢板市だ。矢板市(やいたし)は、栃木県北部に位置する市で、栃木県庁塩谷庁舎が設置されるなど、行政上栃木県塩谷地区の中心となる市であり、1958年(昭和33年)に市制施行された。高原山の南麓に広がる自然豊かな土地で、戦後の高度成長期には工場や市営住宅が整備され、地方都市としての形を整えつつあった。
明治4年の廃藩置県を経て栃木県の所管となり、1958年(昭和33年)11月1日、矢板町は市制を施いて「矢板市」となり、現在に至っている。昭和43年当時、矢板市は人口が増加し、工場や住宅が建ち並ぶ活気ある地方都市だった。しかし相沢チヨが住んでいた市営住宅の一室は、外の世界から完全に切り離された閉鎖的な空間だった。
地域社会の目には見えないところで、ひとりの女性が何年もの間、助けを求められずにいた。隣近所との付き合いが密接な地方都市においてさえ、家族という壁の内側で起きていた暴力は、誰にも気づかれることがなかった。そのことは、この事件が提起したもうひとつの問題点でもある。
この事件が問いかけたもの――法と人間の尊厳
相沢チヨの事件は、単に「娘が父を殺した」という事実の外側に、複雑な問いを投げかけ続けている。被害者は誰か。加害者は誰か。法律は誰を守るために存在するのか。尊属殺人罪という規定は、親への敬意を守るための法律として設計されていたが、その条文が実際に守ったのは、娘を15年間支配し続けた父親の「権威」だったとも言える。
家庭内性的虐待の被害者が、なぜ最も重い刑罰の対象になりうるのか。裁判の過程でこの矛盾は広く認識され、社会的な議論を呼んだ。女性運動、法学者、ジャーナリストがそれぞれの立場からこの事件に言及し、日本における家族制度と法律の関係を問い直すきっかけになった。
また、現代の視点から見ると、この事件はDV(ドメスティック・バイオレンス)や性的虐待の問題とも深く結びついている。当時の日本には、家庭内暴力を専門に扱う法的制度も相談窓口もほぼ存在しなかった。チヨが助けを求められる社会インフラがそもそも整っていなかったという事実は、法改正と並んで、社会全体の支援体制の必要性を浮き彫りにした。
判例としての重み――憲法14条と法の下の平等
日本の法学の授業で今も取り上げられるこの判例は、「尊属殺重罰規定違憲判決」として知られている。憲法学の観点からは、最高裁が法律の条文を違憲と明示した点が極めて重要だ。それ以前の日本の最高裁は、違憲という言葉を使うことに非常に慎重だった。
この判決を境に、日本の違憲審査制度のあり方についての議論が活発化した。裁判所が立法府の作った法律を無効にできるのか、すべきなのかという問いは、民主主義の根幹に関わる。相沢チヨという個人の悲劇が、日本の憲法体制そのものを揺さぶる論点を生んだ。
その後の法学教育において、この事件は「違憲立法審査権の実質的活用」の先例として繰り返し引用される。法科大学院の教科書にも登場し、ロースクールの学生たちが今も「被告人は誰を守るべきだったのか」という問いと向き合い続けている。
矢板市と歴史の蓄積
矢板市は、この事件とは別の文脈でも歴史的に注目される地域だ。市北部にある活火山・高原山を構成する剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が、当市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され、研究が進められている。産出時期は古いものでは今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡は日本最古のものと推定されている。
矢板市でも江戸時代の庶民生活の手がかりが数々残されており、その代表的なものが国指定の重要文化財でもある「荒井家住宅」で、300年の時をゆうに超えた江戸前期の庄屋の風情を色濃くとどめている。昭和の事件が残した歴史の傷跡と、はるか太古から続く人の営みの痕跡が、同じ土地に重なり合っている。
事件が残したもの、そして今
相沢チヨ・矢板市事件は、昭和という時代の「家族」という概念が、いかに個人の権利を踏みにじりうるかを示した。父権的な家族制度への無批判な依存、そして法律がそれを暗黙に補強していた構造への問いかけは、今も色あせない。
1973年の最高裁判決から半世紀以上が過ぎた。日本社会は家庭内暴力防止法(DV防止法)の制定、性犯罪に関する刑法改正、そして児童虐待防止法の整備と、少しずつ変わってきた。その変化の起点のひとつに、矢板市で起きたあの夜の出来事がある。
チヨが雑貨商の戸を叩いたあの瞬間、彼女はおそらく法律を変えようとは考えていなかった。ただ、もう限界だった。それでも、その一夜が日本の法律を変えた。静かな栃木の地方都市で起きた悲劇が、国家の憲法解釈を揺るがした。相沢チヨという名前と矢板市という場所は、そういう意味で、日本の法史に深く刻まれたままだ。